refuge... ..

どっかに飛んでいっちゃわないようにするための場所

【雑記】犀の角だよ

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こんにちは久しぶりになにか書きたくなったので。

休みなのでゴロゴロとTwitterを眺めていたらこんな呟きが。

 既存宗教というか伝統宗教と比較しての物言いに読めるんだけど、そうじゃなくね?っていう。伝統宗教にそう思うってより「如来」とか「神」に思ったりするのはあるあるだよねってのは今ひらめいたんだけど、それは置いておいて…

【居場所】ってやつのことを書きたかったんだ。

その前に【救い】ってところから書くか。

普通に考えてほしい。カルトでも伝統宗教でも秘密結社でもなんでも良いんだけど、そんなものに救われて楽しいかっていうか、他人に自分を救うことなんて出来ないと思うんだよね。勿論、人に親切にされたり尊重されたりする必要がないってことではない。でも、それと【救い】って多分全然別物だから。

「金がない」=「地獄」でも、「友達が居ない」=「地獄」とかとか色々なことに言えると思うんだけど、例えば「金がない」=「金がない」ただそれだけなんだよ。それ以下でも以上でもなんでもないじゃん。だったらどうしようかなー?って考えるだけじゃん。もしかしたら自分ってあんまりお金ほしくなかったのかな?とか色々と考えることも増えてくるじゃん。勿論葛藤もね。

そうやって狸の皮算用してみたり葛藤してみたりとか色々考えながら、あっち行ったりこっち行ったりしながら生きる。で、生きるってのは色んな人と出会いながら生きてるわけじゃん?で、あるあるなのが「友達」とか「絆」とか「深い付き合い」とかそういうのが無いとって思い込んでる人いるんだけど、そんなわけねーから。周りをよーーーーく見渡してみなさいって話。そんなやつ居なくても楽しく暮らしてる人は世の中に沢山いるんだよ。

「真理」とか「救い」とか「こいつが悪い」みたいな答えをもらって【解決】みたいに救いなんかあるわけねーんだよ。

で、【居場所】ってのはとくに社交的でもピカピカしてなくても自分で作れるから。普通に挨拶して一緒に仕事してたり文句言い合ってても大丈夫だから。だから居場所を与えてくれないって不貞腐れて「真理で最終解決!あいつらはバカだ」ってならなくていいんだよ。

ここでの「友」は対人関係における友人に限定されません。例えば、大学生であれば自身がひたむきに学ぶ学問が「友」になり、社会人であれば自身が責任をもって勤しむ仕事が「友」になります。つまり、自身を成熟へと導くものが総じて「友」と呼ばれるのです。

犀の角のようにただ独り歩め。 | きょうのことば | 読むページ | 大谷大学

色んなところに居場所はあるし、色んな人やものが友になるんだよ。

うまく話をまとめられないし疲れてきたので、雑にも程がある雑記だけどこのへんで。

何が言いたいかというと、拗らせてる坊主の拗らせてる呟きにイラッときたって話。

【雑記】ちょっと懐かしいようなSNS

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みなさんお久しぶり。最近ね昔なつかしい感じのSNS見つけたんですよ。Gravityってアプリね。iosでもAndroidでも使えるよ。ググるとネガティブな情報も出てくるけど、結構面白いよ。懐かしい感じするんだよね。

既存のSNSと何が違うのかな?ってところでまず感じるのが同調圧力的なのがあんまりないかな。いまTwitterとかって「こうじゃなきゃ」とか「こうあるべき」とか「それはちがう」とか「こうしたい」とかなんか面倒くせーじゃん。ちょっと雑か。

なんか昔のインターネットと違って、【政治】とか【思想】とか【女】とか【男】とかetc...が全面に出てきちゃってるんだよね。もちろん【大きな物語】から逃れられる人なんてこの世の中には存在しないと思うんだけど、主役は【大きな物語】じゃないんだよね。主役はこの【俺様】なの。主役は【お前】なんだよね。

でもさ、【大きな物語】を語るっていうとムカつくな、【大きな物語に便乗】みたいなのが多くて、あんたが【主役】なエモーショナルな語りがすげー少ないんだよね。

でも、このGravityは少し昔のインターネットの香りがして、若者が恋愛で悩んでるのがいっぱい流れてきたり、おっさんが振られて凹んでるのが流れてきたりとか【個人】な感じがすごくするんだよね。大きな物語が前景化してない。

リツイート機能も共有機能もないからメディアと分離されてるのも良いデザインかもしれないね。

いいよGravity。個人って感じで。

 

【雑記】相手によって自分が変わる 当たり前なんだけど面白い

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先に言っておくけどノロケたいわけじゃないからね。

最近、彼女が出来たんだけど改めてお付き合いする人によって自分自身の変化がここまで違うんだなぁと気がついて面白く思うんだよね。

勿論、自分自身のその時その時の環境、例えば経済的なものであったり、仕事であったりとか、そういうのも大きく作用してるから一概には言えないんだけど。

今回は自分の中でちょっと逆というか、この数年の間でお付き合いしなかったようなタイプの人と付き合ってみようってなったの。この辺もなんでなんだろうな?懲りたのかなっていうか、普通に幸せになればいいんじゃないかな?って気がついたのかも。

この数年というか長らく【エッジのある人】みたいな、例えばライターですとか、デザイナーですとか、絵を書いてましたとか、バリキャリですみたいな人とばかりお付き合いしてたんだよね。それはそれで楽しいんだけど、やっぱりみんな超がつくほど個性的だし服装も一般的なお洒落さんとは違ったハイセンスだったり。それはそれで良いんだけどね。学ぶことも多い。でも、そういう人たちから卒業してもいいんじゃないかなって思うようになったんだよね。

ただの感覚というか僕の触感的なものなんだけど、この手の人たちは一緒にいると、ふわっとした感じはしないんだよね。しっかりそこにあるっていうか。言葉ではうまく表現できないんだけど、【ある】って感じ。で、確実に【ある】感がするんだけど、コミュニケーションがとりにくかったり、こちらが不安になることが多かったんだよね。

で、今回そうじゃない人とお付き合いを始めてみたいんだけど、一緒にいると【ふわっ】としてる感じ。お仕事も一般的な感じで、階層的にもそんなに変わらないかなって。あとはお洒落さんなんだけど、エッジがきいてる感じじゃなくて一般的な女性っていう。

【ある】って感じの人とお付き合いしてると、こうなんだろう圧を感じたりするし、上手く自分を出せなかったり、不安になったり、酒飲んでないみたいになることが多かったの。それが【ふわっ】感の人と一緒にいると話すの楽しいなーってなるのと酒飲んでなくても平気だなー。不安感もあんまりないなーって。

この違いってなんなんだろうね。不思議だなって思って書いてみたんだけど結局よくわかんない。まー春だよね。ってことで。

 

【雑記】自分で時々切断することについて気がついたこと

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最近仕事が忙しかったんですよねー。上司や同列の人たちが体調不良になって次々と休んでいく中でも俺は休まないぞー!なんて思いながらゴリゴリやってたんだけど、「ハァー!!無理!!」って感じで急に熱を出して休んでみたんです。罪の意識など微塵もない。と思ってたんだけど、自分の変化が面白かったので書いてみる。

この「仕事休まないぞー!」ってのってある意味ルールというか、社会人の「戒律」的なものじゃん。それを破る!つまり破戒なわけですよ。資本主義の神様から賜った戒律を自らの意思で破るわけなんです。大袈裟だけど、そういうことだよね。

で、ちょっと前からタバコを紙巻きタバコに戻してたんです。IQOSにはないこの開放感素晴らしいとか思いながら。

で、つい先日、破戒活動した直後に急に「IQOSに戻したいな…」って思ったんです。

面白いよねー。破戒活動してみたら違うところでクリーンになろうとする。戒が強化されるっていう。これ面白い現象だよね。

これってもちろん個人差とかありそうだけど、僕の場合はこれの繰り返しなのかもなーと思った。この辺をもう少し自分でちょうど良いバランスのところでやりくりできたら事故ったりもしなくなるんじゃないかなって思うんだけど中々難しいよね。

で、昨日は夜に一人焼肉とかお酒多めに飲んでからグースカ寝てみたりとか。

これぐらいが丁度いいのかもなー。

切断するって大事かもね。なんで切断って言い出したかというと、コーヒーブレイクっていうじゃん。ブレイクって切断って意味だよねーって。あぁなるほど。切断かと。

たぶん切断すると強化されるんだけど、その切断の度合いって大事なんじゃないかなっていう。細かく切断していくことでジェットコースターみたいなマゾい人生にならないんじゃないかなっていう気がする。

花粉症じゃない人が花粉症だらけの中でサバイブする季節だぜ

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今週のお題「花粉」

なんだか書くこと自体を楽しめるんじゃないかって思ったので、今週のお題ってのに参加してみることにしたよ。

タイトル通りなんだけど、ぶっちゃけ花粉症じゃないんです。まったくもって花粉症の花の字もないくらい花粉症じゃありません。

でもね、職場に行くと花粉症の人が多くなる時期なので、花粉症だらけの職場をどうサバイブしてるかを簡単に書いてみようかなって思いますよ。

1.花粉症の人を把握

2.花粉症の人に声かけ

3.花粉症になりかけてるのを演じる

まず1番ね。これが大事。コロナでみんなマスクしてるからわかりにくいんだけど、だいたい毎年同じ人じゃん。で、これを把握してると○○さんはイライラしてるなとか、〇〇くんは薬でボーッとしちゃってるなとかわかるわけ。そうすると近づいてはならない…とか、絶対ミスってるよな…とか先回りできちゃうわけですよ。当たり前なんだけどね。

で、次は2番ね。「あ~○○さん花粉症っすか?」だけで十分だ。花粉症なんだよってわかってもらえるだけで十分なんだ。知らんけどね。まったく知らんけど。

で、3番だ。これが一番大事なんだ。声かけしたときに「○○さんは花粉症じゃないの?」的なこと聞かれるんだよ。で、ここで「マジで花粉症こないんすよー!」とか言っちゃうと敵だと思われる可能性大。良くても違う民族だなぐらいは思われてると思うんだよ。まったく知りませんけどね。

ここで僕がよく言うのが…

「いままで花粉症じゃなかったんですけど、なんか目がかゆいんですよ~」

これ。これでいい。今までは違う民族だったけど、今年からあなたと同じ花粉症民族になりましっていう宣言。ちなみに僕は毎年これ。毎年いままで云々言ってますね。毎年花粉症新入生です。これを言うだけで花粉症の人たち嬉しそうな顔するんですよ!

 

まーなんていうのある意味、花粉症民族に花粉症の振りして紛れ込むスパイ的な。

 

って感じで、今週のお題に便乗してどーでもいいこと書いてみたけど、地味にガチだよこれ。ってことで今年も花粉症じゃないみんな!!一緒に乗り越えていこうぜ!!

【雑記】奴隷… とまるな!!進め!!って…

www.youtube.com

https://www.youtube.com/watch?v=HSY9uDsLGHQ

 

最近上のトライブスをNetflixで見始めたんだよね。ヨーロッパが崩壊した後に極小国同士が覇権争いを行っていて~的な。森の中で静かに暮らしていたオリジニーの兄弟がそれに巻き込まれていくって感じかな。なかなか面白い。

で、書きたいのはそこじゃなくて、オリジニーが捕まって奴隷として他国の工場に連れていかれて強制労働的な感じの場面があるんだよね。よく映画とかで奴隷が看守っていうかムチ持ってる人に「止まるなゴルァ!!」「進めゴルァ!!」みたいな。

その場面見てて「あれ?なにかと同じじゃね?」って思ったんですよ。

なんだろなーって思ったら、よく意識高い系とか自己啓発書とかに書かれてるじゃん。動け動けアクションアクションって。あぁ俺奴隷なんだなって。

で、この映画とかに出てくる奴隷って自分たちが奴隷で強制労働させられてるってみんな認識してるわけじゃん。でも、現代って所謂意識高い系っていうか、信じすぎ系っていうの?そういう人たちって喜々として実践しようとするじゃん。

自分たちが奴隷だって気がついてないんだよね。

それってやばいよね。自分が奴隷って気がついてないってやばいよ。目を覚ませよ!!

ま、明日も私は奴隷労働です。

そんなことを思った1日でした。

トライブス面白いと思うから見てみるといいよ。

【読書】貧乏人の経済学――もういちど貧困問題を根っこから考える

 

 

遅読なのでまだまだ前半戦なんだけど「なるほどなぁ」と思うところがあったので、書いておこうかなって感じ。

貧乏な人たちにどうすれば予防接種を継続的に受けてもらえるか的なところで、はぁーなるほど。問題はこっち側にもあるのかと。

この「全か無か」という議論はもっともらしく見えるだけです。たとえ自分の子供の予防接種が病気を根絶させなくても、自分の子供だけでなくまわりの子供たちも助けることになります( 36)。ですから基本的疾患に対する完全予防接種率を6パーセントから 38 パーセントに上げることで、大きな社会利益が生じるのです。  結局のところ、景品による予防接種に対する不信感は、主流の政治的分布で右派と左派の両者にとって、信念の問題に起因するのです。人々がやるべきだと あなたが 思うことをさせるのに、金や物で釣ってはならないという信念です。その理由は右派の立場だと、それが無駄遣いされるからということになります。保健団体やセヴァ・マンディールから派遣された良心的な医師を含む、伝統的な左派に言わせると、これは与えられた物とそれを受け取った人の両方を貶めることになるからです。だからむしろ、貧乏な人に予防接種の利点を納得してもらうことに専念すべきだ、というわけです。  このいずれの考え方も、こうした問題などに対する考え方としていささか的外れだと思います。

予防接種受けると豆がもらえて、予防接種全部通うとステンレスの皿がもらえるキャンペーンをやったら接種率がドーンって上がったよって話ね。

貧乏な人たちは知識がないからとか、現地の宗教を信じてるからとか色々言われるんだけど、別にそこまでじゃないよねって話。そうではないしそれって的外してるよねっていう。

理由は2つあります。まずダール豆900グラムの実験で明らかになったのは、少なくともウダイプールでは、貧乏な人々はあれこれ信じこんでいるように見えても、その多くはさほど決然たる信念などではないということです。ダール豆をあきらめるほどには邪眼を恐れてはいないのです。つまりこれは、みんな実は自分にはワクチンの費用便益を評価できるほど強い基盤などないということを自覚している、ということです。実際に自分たちのやりたいことがわかっているとき―不幸ではありますが重要な例として、娘を相応のカーストや宗教の人と結婚させる場合など―には、それを金や物で動かすのは容易なことではありません。ですから、確かに貧乏な人々が持つ信念の一部はとても強固ですが、すべてがそうだと考えるのはまちがっています。

これがまちがっている理由はもう一つあります。右派も左派も行動は意思に基づくものだと考えているようです。もしも人々が予防接種の価値を認めれば、子供たちは予防接種を受けることができるというわけです。これは必ずしもそうとは限らないし、その含意は実に広い範囲に及びます。

 最近思うのが上にも書いてあるんだけど、「全か無か」とか「右か左か」というか、物語が邪魔をしているというかなんというか… 僕はTwitterでよく見るような右も左も大嫌いだけど、政治や社会に興味はあるんだよね。でもそれって物語の対立なだけじゃない?ってことが多かったり、どちらが正しいのかを言い合うだけ。みたいなの多いじゃん。あとは、大きな枠の中にはめ込むっていうか単純化するのが目に余るというか、行き過ぎてるというか、すごく嫌な感じがするんだよね。もちろんそうじゃない人もたくさんいるんだけど、なんだかなって感じがずーっとしていたので、この本読んでホッとしたよ。

 

そんな感じかな。さて読み続けよう。